本所吾妻橋にあるアサヒビール本社。金色の雲のオブジェが有名ですよね。
実はこのアサヒビールの総本山ともいえる吾妻橋の場所は、ライバルであるサッポロビールが用意したものだったという事実があったとしたら、驚きませんか?
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ビールに歴史あり!アサヒビールとサッポロビールの関係性
サッポロビールのもともとの母体は、北海道開拓使。まだ「蝦夷地」などと呼ばれていた頃から、開国したばかりの明治政府が鉱山や農作物、さまざまな産業を切り拓くための場所として北海道を開拓することにしたのです。
北海道でビールを作る!?人がそんなに住んでいないのに・・・
その中で、「ビールを作る」という目的を持った人たちが現れます。明治時代の工業や諸産業を支えていたのは、実はお抱え外国人技師の力が大きいことは、歴史の教科書でチラリと見たことがありませんか?
その招聘お抱え外国人たちが飲みたがったのが、ビールなのです。
そして、北海道に一攫千金を夢見て移り住んだ労働者たちの疲れをいやすのもビールでした。
幸いにも北海道には広い土地があり、寒冷な気候はホップの栽培にも適していました。すでに野生のホップも自生していたのを、アメリカの地質鉱物学者トーマス・アンチセルが発見しています。
また、ビールの原料の大麦も、ヨーロッパから北海道に適したものが輸入され、作付けされていきました。お膳立てはそろっていたわけです。
北海道からナショナルブランドへの華麗なる転身
北海道のビール、札幌麦酒は地産地消だけではなく、東京にも販路を求めます。そして、全国規模での商売を印象付けるのに、東京で工場を持つことになります。
そこで選ばれたのが、現墨田区の吾妻橋付近にある旧秋田藩主佐竹邸跡地だったのです。
ここを工場用地として1900(明治33)年3月に買収し、札幌麦酒は東京進出を達成します。
ビール業界の再編
ここに東京を拠点としていたエビスビールをブランドとしていた日本麦酒、そして関西から進出してきた大阪麦酒(現アサヒビール)と、更に横浜の外資系だったキリンビールと、大手がしのぎをけずる麦酒の販売競争がし烈さを極めます。
あまりにひどい安売り合戦は品質の低下を呼ばないとも限らず、各社も負けられないが勝てない状態の惨状に疲弊しはじめていました。エビスビールの日本麦酒の社長馬越恭平は1904(明治37)年、札幌麦酒の会長渋沢栄一と監査役の大倉喜八郎、大阪麦酒の社長鳥井駒吉に対して、日清戦争を前に分立・分断して争う時ではなく、今こそ団結すべきだと説き伏せました。そして、麒麟麦酒を除く三社がこの合併に同意し、1906(明治39)年3月、市場シェア70%をも占める日本最大のビール会社、大日本麦酒株式会社が設立されたのです。
各社が無くなり一つのビール会社・・・そして敗戦
麦酒が普及した大きな理由の一つ。それは、戦時中の配給制だということはご存知でしょうか。自由にモノが買えない時代に、配給という形で、それまでビールを飲むことが無かった家庭にまで瓶のビールが行き渡りました。そこで日本中の家庭でビールが飲まれるようになり、かつてアルコールといえば清酒(日本酒)一辺倒だった日本人が、ビールの手軽さとおいしさに目覚めたのです。
さて、各社が団結して一つになり、ツライ第二次世界大戦を終えてみると、待っていたのは占領時代です。アメリカをはじめとした連合軍による占領体制下において、過度経済力集中排除法の適用会社となり、1949(昭和24)年9月、日本麦酒株式会社と朝日麦酒株式会社に分割されました。
ブランドと不動産と財産の分配
さて、大日本麦酒だったころは一つでしたが、それぞれ、その前に持っていた財産も含めて共有となっていたので、分割されたときに分かれるのも、これまた大変なことでした。
朝日麦酒は吾妻橋・吹田・西宮・博多の工場を入手したのです。吾妻橋・・・かつて、札幌麦酒が苦労して手に入れた元武家屋敷だった工場になります。
どうでしょう。歴史を振り返ると、とっても面白いストーリーが見えてきますね。皆さまも東京を散策するとき、是非あの金色の物体を眺めながら、「旧秋田藩の藩主佐竹邸があり、サッポロビールが苦労して手に入れた工場の跡地なんだなぁ」と思っていただけたら・・・厳しい時代を華麗に生き抜いた時代の豪傑諸君も喜んでくれるのではないでしょうか。
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